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定石・定跡

先日、新聞を見ていたら、昨日の将棋名人戦の記事に「定跡」という文字を発見。「定石」じゃなく? と思いつつも、「定石」はもともと囲碁からきている言葉なので、将棋の世界では「定跡」とするのかもしれないと、調べてみた。

広辞苑の第6版では、「定石」を
①囲碁で、長年の研究によって、部分的に双方ともに最善とされる、きまった形の打ち方。〈運歩色葉集〉。「―通りに打つ」
②転じて、物事を処理する時のきまった仕方。「捜査の―」
と説明。
一方の「定跡」は、
将棋で、長年の研究によって、双方ともに最善とされる、きまった形の指し方
として、将棋で使う言葉としていた。

どの辞書も概ね同じ。

やっぱり、棋界としては「石」を使うわけにはいかない! ということだね。

 

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theme : 雑記
genre : 学問・文化・芸術

波紋を呼ぶ

波紋は「広がる」もので「呼ぶ」ものではない、まして「投じる」なんて、と思っていた。ところが今日の朝日新聞の朝刊でこんな記事。



「米国では教育現場にも波紋を呼んでいる。」と書かれていた。調べてみたら、OKみたいだ。「波紋を呼ぶ」は「てにをは辞典」にも載っていた。


毎日新聞の「毎日ことば」というサイトによれば、

「波紋」の原義は「水面にものを投げた時などに、輪のように広がる波の模様」で、そこから「関連してつぎつぎに及んでいく変化や反応。影響」(いずれも広辞苑7版)の意味が派生しました。波紋を目的語に取る動詞は「広げる」「呼ぶ」「投じる」「描く」「及ぼす」などさまざまあり、少しずつそのニュアンスも異なるようです。

と書かれていた。

そして、

何もないところに騒ぎを起こすことを「波紋を投じる」、それによって影響の波が及んでいくことが「波紋を広げる」、影響が及んで受け手側が動揺することに焦点を当てたものが「波紋を呼ぶ」

のではないかと、使い分けを解説していた。


あまり納得していないけど、おかしいだろ! といったところで仕方がない。言葉は変わる。近頃は、的は「射る」ものなんて言っても、「はぁ?」という反応しかないもの。


theme : ことば
genre : 学問・文化・芸術

披く

ある能楽師の経歴を見ていたら、「披く」という言葉が出てきた。

見たことがなかったので調べてみたら「ひらく」と読んで、一般には「開く」と同じ意味使うようだ。


しかし、能の世界では、ある程度修業を積んで、宗家の許しを得て特別な演目を演じる場合にのみ使われるとのこと。


私が調べていた能楽師の場合、

○○年▽月 「猩々乱」を披く

×× 年△月 「道成寺」を披く

というふうに使われていた。


狂言や囃子でも使われるらしい。


宗家の許しを得て上演出来るようになった自分の力量や成長を「披露」する「ハレ」の日だ。

「披き」=扇をひらく=末広 というわけでお目出たい儀式ということなのだろう。


theme : 伝統芸能
genre : 学問・文化・芸術

被害が発覚?

今朝、テレ朝のニュース番組(とは言い難いと常々思っている)を聞き流していたところ、「被害が発覚しました」という声に手が止まった。


ニュースの内容は、大阪・ミナミの法善寺の石像のこけがはがされていることがわかったというもの。それを「苔が剥がされる被害が発覚した」と伝えていた。


最近はメディアの劣化が著しいが、それは言葉の使い方でも感じるところだ。


そういえば、先日、夫がオンライン会議で

「不具合が発覚?って、お前、知っていて隠していたのか?」

と、PCの向こう側の人を怒っていたのだが、「発覚」の意味をちゃんと知っていれば上司の怒りを買うこともないのに、と思ったばかり。もっとも、夫は相手が誤用していることを承知でわざと怒ってみせたのだが。


ことばの意味や使い方は時代とともに変わるとはいえ、「発覚」については今のところ、私が知っている意味から広がってはいないようだ。


~されて下さい

最近、「~されてください」っていう言い方を読み見たり、聞いたりする。

これって、すっごくへんな感じがして気持ちが悪い。


「されて」のもとは「される」という連語。

「される」は、さ行変格活用「する」の未然形「さ」に尊敬の助動詞「れる」がついたもので、「する」の尊敬用法。「なさる」と同じ意味なので、文法的には間違いではないかもしれないけれど、「ください」には普通はつながらない。


やっぱり、「なさって下さい」じゃないかなぁ。


それに「れる」は受け身の意味もあって、どちらの意味が分からに場合も多いので、尊敬の意味で使うとき、私は「なさる」を使う。


尊敬語は、未然形+「(ら)れる」より、同じ意味の尊敬語を使いたい。

来る →  「来られる」 ではなく 「いらっしゃる」

食べる → 「食べられる」ではなく 「召し上がる」

言う → 「言われる」ではなく「おっしゃる」

とうふうに。


そういえば、「○○様のお宅でよろしかったでしょうか?」と電話をかけてくることがある。つい最近、私が「今も○○ですが」と応えたら、舌打ちして「くそばばぁ~」という捨て台詞を吐いて電話を切った僕ちゃんがいたっけ。いろいろな意味で残念な僕ちゃんだったな。


放送大学『日本語リテラシ―』

放送大学の『日本語リテラシー』という講義が面白いので、録画をして見ている。

第3回は「和事と漢語と外来語」。日本語にはこの3つの語種があり、それぞれが使い分けられているという話。

「月曜日は月見そばの日」などという張り紙が、蕎麦屋にあったとき、
日本語で育った人なら「月曜日」と「月見」を結びつけるロジックを用意に理解できるが、この張り紙を他の言語に訳した時に、その言語を母語に持つ人たちには意味が通じない。

例えば韓国語には、「月曜日」は월요일、「月見」は달맞이
「月」という字は 월(ウォル)と発音する漢語だけれど、韓国語の月見には、「つき」に相当する달(タル)が使われて、漢字を当てることはない。「月」=「ゲツ」=「つき」という対応付けを受け入られない。

一方、日本語は「月」という漢字(文字)を音として受け入れるとともに、その意味を和語(大和言葉)の「つき」に翻訳して、訓読みした。「月」=「ゲツ」=「つき」を受け入れられるのは日本語Native の証なのだという。

ところで、日本語に占める漢語の割合は非常に多い。国語辞典の収録語の約半分を漢語が占めるそうだ。大きな要因は、西洋の概念や用語を片っ端から日本語に置きかけたことだという。「社会」、「個人」、「自然」、「権利」、「自由」、「恋愛」などなど。

漢語は意味の輪郭が明確で、和語は意味のぼやけたあいまいさを含むとともに、やわらかな印象がある。アカデミックな文章には漢語が多用されて、何か堅苦しくも厳格さがあるような気がする。

一方、作家の書く文章には、漢語と和語と外来語の語感の違いをうまく利用した作品があるという。その例として吉本ばななの「キッチン」が取り上げられた。

冒頭の「私がこの世で一番好きな場所は台所だと思う」に始まって、主人公がいかに台所に愛着を持っているかが語られ、「台所」という言葉が何度も出てくる。ところが「台所」以外の言葉を使って同様のものを表現しているところが2カ所ある。

1つが「厨房」。一人きりの肉親だった祖母が亡くなり、祖母と住んでいた家を引き払い、帰りのバスで見た光景に号泣したとき、「厨房」から漏れてくる賑やかな音を聞いて、「神様、どうか生きてゆけますように」と心に誓う場面。

もう1カ所は、この物語の最後の部分。
「夢のキッチン。
私はいくつもいくつもをれをもつだろう。心の中で、あるいはみっさいに。~私の生きるすべての場所で、きっとたくさんもつだろう。」

「キッチン」という小説は、喪失から再生への物語だ。

和語の「台所」は祖母と暮らした主人公の記憶の歴史であり、地味で古風な生活の体感を表現し、漢語の「厨房」は機能を堅く表現する。そして外来語の「キッチン」は、未だ来ぬものとして書かれているという。

滝浦真人先生によれば、「(最後が)「台所」ではなく「キッチン」である理由は、「キッチン」という語の中身がまだ”空”であるからだろう。それは再生によってこれから、満たされる場所だからである」ということだ。

そんなふうに、外来語には何か新しさを感じさせる。最近は、日本語にない概念をうまく表現できずにもとの言葉の音をそのままカタカナにしてしまうことも多いけれど、メディアが使う場合は、新しいものという印象を与えるため使うことも多い。

小池百合子が多用するのも後者の理由。「東京アラート」も。

「キッチン」にもどる。吉本ばななは海外でも人気の作家なので、当然翻訳本も出ているだろう。例えば英語翻訳版では、「台所」と「厨房」と「キッチン」とは、いったいどう訳し分けられるのだろうか。同じ”Kitchen”では、作者の意図が完全には伝わらないのではなかろうか。これは何としても英語翻訳版を手に入れてみようと思う。

      

令和

音の響きはきれいだけれど、漢字を見るとなんだかぞっとする。

初めて和書からとったのだと、世間では殊更強調して、政治ショーを演出している。

「万葉集」巻5(815番歌)の詞書「初春令月、気淑風和」からとったのというけれど、この詞書は、後漢の学者 張衡(78-139)による「歸田賦」の「於是仲春令月、時和氣清、原隰鬱茂、百草滋榮」(是に於いて 仲春の令月 時は和し気は清む 原隰し鬱茂し 百草 滋栄す)からきているのだそうだ。宦官による政治腐敗に耐えきれなくなって帰郷した時の詩だというから、何とも皮肉は話だ。

そもそも元号そのものが、中国の、皇帝が時をも支配するという思想から始まったものなのだし、漢字を使っている限り漢籍からは逃れられない。ルーツを日本に求めるなんてナンセンス。伝統、伝統と騒ぐなら、そこだけ変えるなって話だ。

ま、元号が何であろうと、庶民の私にはほとんど影響がない。どうしても元号が必要になった場合、新元号は西暦から令和(018)を引くと計算が簡単だと、誰かがつぶやいていたっけ。

      

また「させていただく」だよ。

「新規の案件をお願いさせていただきたく、ご連絡を差し上げました」というメールをもらった。

「~させていただきたく」ってことは、「お願いしてもいいですよ」って答えたら、本題のお願いするんだろうか? なんにでも「させていただく」ってやめてほしい。

もうひとつ、「ご連絡差し上げました」もなんだか違和感。「させていただく」を使うならこっちでしょ、と思う。

「新規の案件をお願いいたしたく、ご連絡をさせていただきました」でしょ。
ま、私なら、「新規の案件をお願いいたしたく、ご連絡申し上げます」と書くが。

        

合格させていただいた

昨日テレビを見ていたら、新妻聖子がミュージカル女優として活躍するまでのいきさつを語っていたのだが、
「~のオーディションに合格させていただいた」
といったのには驚いた。

最近の「~させていただく」の乱用には辟易していたのだが、ここまでくると開いた口がふさがらない。

「合格させていただいた」という言葉からは、彼女の努力などみじんも感じられず、誰か有力な人に、「合格させてください」とお願いして回って、袖の下なんか渡している姿を思い描いてしまう。

因みに「させていただく」は相手の許可により自分が行動をする場合や、相手のおかげで何らかの恩恵を受ける場合に使う。

そして、こんなの見つけた。
この言葉に私と同じように違和感を覚える人っているんだな。安心した。


関係「性」

受講生の訳文にこんなのがあった。

「二つの検出器、1と3は、互いが同一平面上にある関係性になるよう配置されることが図に示されている。」

数年前から耳にもするし目にもする「関係性」ということば。最近はテレビのアナウンサーも平気で口にする。

関係性の「性」って何?

昔々、受験生だったころ、小論文の書き方で、付けなくても通用する言葉に無用の接尾語を付けてはいけない、とよく言われた。特に「~的」、「~」をつけると、意味が弱くあいまいになるって。物事をソフトにあいまいに表現したい日本人の特性の現れなのだろう。

「~性」というときの「性」は、物事の特質や傾向を表すので、関係性というのは関係の傾向、たとえはAとBとの関係がどういう方向に向かっているか、ということになるのだろうか。そう解釈するなら人間関係では「関係性」ってありなのかもしれない。だから教育関係の論文でしばしば使われるのかもしれない。AとBの関係がいい方向に向かうとか、AとBとの関係が薄れているとか。

言葉は少しずつ使い方も意味も変化していく。
似たような言葉に「関連」がある。関連は「関連性」という使い方も認められている。これだってきっと、昔は違和感があった言葉なのだろう。やがて「関係性」だって認められる、いやすでに認められているのを私が認めたくないだけなのかもしれない。

しかし、ものとものとの位置に「関係性」はない。ある一定の「関係」があるだけだ。



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お着物好きの悩み多き特許翻訳者

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